Jun 10, 2026 短篇

[短篇] 記憶の位相

by riito_s · `短編小説 · 約2万字 · 読了40〜50分`



発見


 渋谷のコワーキングスペースにある大型の共用デスクは、意気揚々とした若い起業家グループに占領されていた。

 小田山亮(おだやままこと)は小さな舌打ちに続いてため息を吐き、フロアの隅のカフェテーブルのような個人用デスクに向かう。物書きの仕事はラップトップだけで完了できるはずだが、周囲にある程度の作業空間がないと落ち着かない。それは、個人デスクや会議室のテーブルに慣れ過ぎたサラリーマンの感覚から、まだ抜け切れていないからか。

 とにかく、二〇二七年十一月の今月で五十二歳になる亮には、渋谷の街やコワーキングスペースという空間は、もはや居場所ではないようだ。どこかに新しいワークスペースを探さないといけない。

 この年齢で、「フリーライターという肩書きで食べている」と言えば、感心する人もいることはいるのだが、「実際にはほとんど仕事していないんだな」という蔑視を向ける人も少なくない。一応、サイエンス領域を得意としている。しかし、これまでに評価された仕事や著作などの実績がないばかりか、仕事そのものがとても不安定なので、まあしょうがない。時間に余裕があるからと、知人の紹介で区主催の小学生向けの「ライターの仕事について」という社会学習のボランティア講師などを引き受け、わずかな充足感を得ているありさまなのだ。

 亮は隅の小さなデスクに腰を下ろし、ノートPCを開いた。起動画面が表示されている間、周囲を見渡す。若い起業家たちは、プロジェクターに映し出されたグラフを指差しながら熱心に議論している。「このKPIをどう改善するか」「次のピッチまでに」「シリーズAの」――彼らの言葉は、亮には別の言語のように聞こえた。

 かつて、亮もあのような熱量を持っていたのだろうか。新卒で入社した出版社での日々を思い出そうとするが、記憶は靄がかかったように曖昧だ。あの頃の自分は何を考えていたのか。どんな未来を夢見ていたのか。

 PCが完全に立ち上がる。デスクトップには、未完成の原稿ファイルが並んでいた。締め切りが迫っている案件もあれば、依頼主からの催促メールが届いているプロジェクトもある。亮は最も新しい依頼のファイルを開いた。

 先日依頼された原稿のテーマが映し出される。

「AI時代における記憶と自己同一性」

 締め切りまでまだ数週間ある。

 特に専門分野というわけではないのだが、論文などの情報のリサーチやオンライン取材を通して、またAIの大規模言語モデルの支援があれば、なんとかまとめることはできるだろう。最近のAIツールは、キーワードを入力すれば関連する論文のサマリーを瞬時に生成してくれる。亮は「記憶 自己同一性 認知神経科学」と入力し、検索を実行した。

 画面に数十件の論文タイトルが表示される。亮はその中から、最も引用回数の多いものをクリックした。PDFが開き、アブストラクトが表示される。彼はAIツールに「この論文を要約して、記憶の再固定化について説明せよ」と指示を出した。

 数秒後、整理された説明文が画面に現れる。それによれば、記憶の再固定化とは、思い出された記憶が一時的に不安定化し、再び固定される際に変化しうるプロセスだという。つまり、記憶は想起されるたびに書き換えられる可能性がある。記憶とは、過去の忠実な記録ではなく、常に現在の文脈の中で再構成される動的なシステムなのだ。

 亮はその説明を読みながら、妙な感覚に襲われた。自分が確かに覚えていると思っている過去の出来事は、本当にそのとおりに起こったのだろうか。それとも、思い出すたびに少しずつ変化し、今では元の記憶とは全く別のものになっているのだろうか。

「そうなのかもしれない」

 さまざまに考えを巡らせつつも、亮の意識の半分は別のところにあった。昨夜、娘の杏菜から久しぶりにメッセージが届いたのだ。「来月、結婚することになりました」。簡潔な報告だった。亮は「おめでとう。とても嬉しい。幸せになってほしい」とだけ送った。杏菜から反応はなかった。

 離婚したのは五年前である。元妻の紗季とは、杏菜が二十歳の誕生日を迎えた翌月に別れた。紗季は「あなたはいつもここにいない」と言った。亮は反論できなかった。

 今ここでこれ以上、杏菜と紗季のことを考えるとさらに落ち着かない気分になりそうで、気持ちを仕事に戻した。もうしばらくはリサーチに集中したい。

 論文の別の一節が目に留まった。「エピソード記憶は録画ではなく、常に現在の自己の予測モデルに整合するように再構成される動的なシステムである」

 予測モデル。亮はその言葉に引っかかりを感じた。つまり、人間は過去を思い出す時、その記憶が現在の自分の世界観や信念と矛盾しないように、無意識のうちに調整しているということだろうか。もしそうなら、記憶とは過去そのものではなく、現在の自分が作り出す物語に過ぎない、ということになる。

 亮はふと、若い起業家たちに目をやった。彼らは今、この瞬間を全力で生きている。過去を振り返ることも、未来を恐れることもなく、ただ「今」に没入している。

 自分があの頃に戻れるなら、その後の社会人人生はどんなふうになっていたか。さらにはもっと遡って、たとえば小学生の頃にまで戻れるなら、どんな人生を辿ることになるだろうか。そんな思いが、頭をよぎった。それは五十を過ぎて、まだ子供じみた空想をしていることなのか。それはただの夢想、あるいは願望なのだろうか。

 その時、既視感が亮を襲った。この感覚を、以前にも経験した気がする。だが、それがいつのことだったのか思い出せなかった。デジャヴというやつだろう。

 しかしこうして、何かに集中したり、考えを巡らせていると、周囲で響く若い起業家たちの大声やデスク周りのスペースの狭さは、全く気にならなくなる。結局、仕事というのは、自分の意識の中で行っているものなのだ。

 亮は再び画面に視線を戻し、キーボードに指を置いた。原稿の冒頭を書き始める。「記憶とは何か。それは過去の記録なのか、それとも現在の産物なのか」――しかし、その先が続かない。そもそも、テーマと執筆の核を完全に理解していないからだ。

 彼は深くため息をついた。今日はもう集中できそうにない。ノートPCを閉じ、バッグに詰め込んだ。帰ろう。アパートに戻って、少し休んでから、また夜に取り組めばいい。

 コワーキングスペースを出る時、亮は若い起業家たちをもう一度見た。彼らはまだ議論を続けている。その姿は、眩しすぎて直視できないほどだった。

 その夜、亮は夢を見た。

 場所は小学校の教室だった。木製の机と椅子が整然と並び、黒板には「作文」と書かれている。秋の午後の光が窓から差し込んでいた。

 亮は小学校の高学年のようだった。視線や動きが機敏で、まだ子供であることを自覚できる。原稿用紙に向かい、鉛筆を握っている。タイトルを「四十年後の自分へ」と書いている。

 夢であるにもかかわらず、感覚は異様にリアルだった。鉛筆の芯が紙に擦れる音、指先に伝わる微かな振動すら感じることができる。教室の空気には、木製の床と黒板の粉末の匂いが混ざっている。窓の外からは、校庭で遊ぶ子供たちの声が聞こえてくる。

 思考そのものも自分自身のものとして理解できるし、書いている内容も、視界に入ってくる。

「四十年後の自分へ。僕は今、小学六年生です。でも、ときどき怖くなります。明日の朝、目が覚めたら、今の自分が実は、五十二歳になった自分が見ている夢の中の小学六年生だったらどうしよう、と考えるからです」

 亮は書き続けている。鉛筆を持つ手が少し震えている。その震えまで、リアルに感じられる。

「もしそうだったら、今の僕の記憶も、友達も、全部夢の中の作り物になってしまいます。本当の僕は、五十二歳の大人で、どこかのベッドで寝ていて、目が覚めたらまた五十二歳の世界に戻るのです」

「僕は、大人になったら、今のことを夢に見たくありません。五十二歳になった時、小学生の頃に戻りたいと思って、そんな夢を見ないような人生を送りたいです」

 原稿用紙の最後のマスが埋まった。亮は鉛筆を置いた。周囲を見渡すと、クラスメートたちも作文を書いている。誰も亮に注意を払っていない。教室の時計は、午後二時を指していた。

 そこで、目が覚めた。

 アパートの天井が見える。スマートフォンの時計は午前三時二十分を示していた。亮は汗をかいていた。シーツが肌に貼りついている。

 夢だった。しかし、その内容は鮮明すぎた。普通、夢というのは目が覚めると急速に忘れていくものだ。だが、この夢は違う。細部まで、まるで実際に体験したことのように覚えている。

 亮はスマートフォンを手に取り、メモアプリを開いて夢の内容を書き留めた。忘れないうちに、と作文の一字一句、書き出した。その内容に奇妙さを感じながら、夢の設定と現実との時間軸の捩れに混乱を覚えてしまう。今まで見ていた夢の場所は四十年前の一九八七年で、その中で四十年後の二〇二七年の今が舞台となる夢の話をしたということになるのだ。

 かなり困惑しているが、それには不思議に既視感もある。夢の中で書いていた作文を、以前に実際にどこかで読んだような気がするのだ。いや、読んだだけではない。自分で書いたのかもしれない。

 亮はベッドから起き上がり、キッチンに向かった。冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注ぐ。一気に飲み干した。時計を見ると、まだ午前三時半だ。もう一度眠ろうとしても、眠れそうにない。

 彼はリビングのソファに座り、スマートフォンのメモを読み返した。夢の中で書いた作文の内容が、そこに記録されている。「四十年後の自分へ」というタイトル。五十二歳の自分が見ている夢ではないか、という恐怖。小学生の頃に戻りたいと思わないような人生を送りたい、という願い。

 なぜ、こんな夢を見たのだろう。昨日、コワーキングスペースで若い起業家たちを見て、「小学生に戻れたら」と考えたからだろうか。それとも、娘の結婚の知らせが、何かのトリガーになったのだろうか。

 亮は窓の外を見た。渋谷の街は、深夜でも完全に暗くなることはない。ネオンの光が、薄いカーテン越しに部屋の中に漏れてくる。その光の中で、亮はもう一度メモを読んだ。

 そして、ある可能性に思い至った。もしかして、自分は本当にこの作文を書いたことがあるのではないか。小学六年生の時に。そして、その記憶が無意識の中に残っていて、今夜の夢として表面化したのではないか。

 だが、それを確かめる方法はあるのだろうか。

 翌朝、亮は実家の母に電話をかけた。

「もしもし、母さん。あのさ、いきなりだけど、俺が小学生の時に書いた作文とか、まだそっちに残ってる?」

「え? 作文? 確かにずいぶんいきなりな話だね。えっと、捨てる理由もないからどこかにあると思うけど。それより昔を懐かしむなんて、あなたも歳とったんだね」

「いや、そんなんじゃないんだけど。あの、『未来の自分へ』みたいなのがあったら、ちょっと見たいんだけど」

 母は携帯電話を繋いだまま、押し入れかどこかに向かっているようだ。段ボールを探し出したようで、ガムテープを剥がす音と、埃を払って咳払いする音が聞こえる。しばらくの沈黙の後で、こう言った。

「あったよ。『四十年後の自分へ』っていう作文」

 亮の心臓が跳ねた。

「え? 本当にそんな題名? たぶん短いから、ちょっと読んでくれる?」

 母が読み上げた内容は、亮が昨夜の夢で見たものと、一字一句違わなかった。

 亮は息を呑んだ。自分がそんな明晰な記憶を持っていたのか。何が引き金となってその作文のことを夢に見たのだろう。

「そういえば、あなたがこれを書いた時、担任の沢田先生が慌ててたね。思い出した。母さん、先生に、『これは、亮くんが全て自分で考えたんですか?』って言われたんだよ。その意味よくわからなかったけど」

「そうだったんだ。ありがとう。後で作文のスクショ送っといて」

「え、用はそれだけ?」

「うん。じゃ、また連絡するよ」

 そう言って、電話を切った。

 亮は呆然とソファに座り込んだ。本当に、自分は小学生の時にあの作文を書いていた……。そして、四十年後の自分――つまり今の自分が、小学生に戻りたいと願うことを、十二歳の自分は恐れていた。

 時間の円環。予言の自己成就。亮の頭の中で、様々な概念が渦を巻いた。

 

直面


 翌日の夕方、亮は数少ないライター仲間の神谷のレンタルオフィスを訪れた。以前は認知神経科学を専門とする研究者だったので、いわば筋金入りのサイエンスライターである。神谷のオフィスは、新宿の雑居ビルの一室にあった。小さな部屋だが、壁一面の書棚には専門書や文献が並び、複数のモニターが置かれたデスクには論文のプリントアウトが積み上げられている。

 亮は一昨日からの出来事を説明した。神谷は黙って聞いていた。時折、メモを取りながら。

「まず、その小学生の時に書いた作文を実際に見たのか?」

「いや、まだ見ていない。母親に読み上げてもらっただけだ」

「じゃあ、夢の中で書いた作文の内容と、お母さんが読み上げた内容が完全に一致しているかどうかは、亮の記憶に依存しているわけだ」

 神谷は続ける。

「記憶というのは、録画された映像じゃない。思い出すたびに、その記憶は再構成される。特に、強い感情や願望を伴う場合、記憶は現在の心理状態に合わせて変化する」

「じゃあ、俺の記憶が、母さんが読み上げた昔の作文の内容を、瞬時に今の記憶の中で書き換えたかもしれないってことか?」

「可能性はある。一昨日、『小学生からやり直したらどんな人生になるか』と強く夢想したんだろ? その願望が、忘れていた作文の記憶を引き出し、同時にその内容を君の現在の感情に合わせて再構成した」

 神谷は一呼吸置いて、さらに説明を続けた。

「これは予測的符号化理論で説明できる。人間の脳は、常に外界からの入力を予測している。そして、実際の入力と予測の間にズレがあった時だけ、そのズレ――予測誤差と呼ぶんだが――を処理する。つまり、脳は世界をそのまま受け取っているんじゃなくて、常に予測を通して世界を見ているんだ」

「それが記憶とどう関係する?」

「記憶も同じだ。君が何かを思い出す時、脳は『こういう記憶だったはずだ』という予測を立てる。そして、実際の記憶痕跡がその予測と矛盾しない限り、君は予測通りの記憶を『思い出した』と認識する。つまり、記憶とは、過去の忠実な再生ではなく、現在の予測に基づく再構成なんだ」

 亮は神谷の言葉を咀嚼しようとした。

「でも、それだと、俺の記憶は全部信用できないってことになる」

「ある意味ではそうだ。特に、感情的に重要な記憶ほど、変化しやすい。なぜなら、そういう記憶は頻繁に思い出されるからだ。思い出されるたびに、記憶は一時的に不安定化し――これを再固定化と呼ぶんだけど――再び固定される。その過程で、記憶は現在の文脈に合わせて微妙に、時には大幅に変化するんだよ」

 神谷の説明に納得がいかず、亮は反論しようとしたが、うまく言葉が見つからない。

「でも、その作文は、実際にあるんだよ」

「うん、それは事実。問題は、その作文の内容が、君の記憶と本当に一致しているかどうかだ」

 神谷はノートに二つの円を描いた。完全に閉じた円ではなく、僅かに螺旋状にも見える。

「実線の円が実際の作文だ。点線の円が君が夢で見た内容だ。この二つは、君が『一致している』と認識している部分では重なっているが、実際には微妙にずれているかもしれない。そして、君はそのずれを認識していない」

「なぜ認識できない?」

「なぜなら、君は『一致しているはずだ』と期待しているからだ。人間の認知は、予測によって駆動される。君が『夢と作文は同じだ』と予測している限り、脳は自動的にその予測を確認する情報だけを拾い上げる」

「それって、俺が自分で自分を騙しているってことにならないか?」

「騙しているというより、脳の正常な機能だ。予測的符号化と呼ばれるメカニズムだね」

 神谷は窓の外を見た。新宿の高層ビル群が、夕暮れの光の中でシルエットになっている。

「もう一つ、興味深い可能性がある」

「何だよ?」

「ベイズ脳仮説というのがある。脳は、事前確率と尤度から事後確率を計算するベイズ推定器として機能している、という考え方だ」

 亮は首を傾げた。神谷は説明を続ける。

「簡単に言えば、脳は常に『次に何が起こるか』の確率分布を持っている。そして、新しい情報が入ってくると、その確率分布を更新する。記憶も同じで、君が何かを思い出そうとする時、脳は『こういう記憶だった確率が高い』という分布を持っている。そして、実際に思い出した内容は、その確率分布の中で最も確率が高いものだ」

「どういうこと? よくわからない」

「つまり、君の脳にとって、『小学生の時に書いた作文』と『現在の願望』が一致している確率が、一致していない確率よりも高かった、ということだ。だから、君の脳は、その二つが一致するように記憶を再構成した」

 亮は窓の外を見た。

「うーん。じゃあ、俺はどうすればいいわけ?」

「作文の実物を見ることだ。そして、君の夢の記録と照らし合わせる。冷静に、先入観を排除して」

 神谷は立ち上がり、本棚から一冊の本を取り出した。

「『記憶の社会心理学』な。記憶がいかに社会的文脈や期待によって形成されるかを論じている。読んでおくといいかもしれない」

 亮はその本を受け取った。分厚い学術書だった。

「ありがとう」

「いや、俺も興味がある。もし君の仮説が正しければ――つまり、小学生の時に書いた作文と、今の夢が完全に一致しているなら――それは記憶研究にとっても珍しいケースになるかもしれないんだよ」

 神谷は真剣な表情で亮を見た。

「人間の記憶は、通常、時間とともに劣化する。細部は失われ、大まかな意味だけが残る。だが、もし君が四十年前の作文を一字一句正確に記憶しているなら、それは尋常じゃない。何か特別な要因があるはずだ」

「特別な要因?」

「感情的インパクト、反復、あるいは……」

 神谷は言葉を切った。

「あるいは?」

「あるいは、その作文が君のアイデンティティの核心に触れているからかもしれない。自己概念に直接関わる記憶は、より鮮明に保持される傾向があるからね」

 亮は黙って頷いた。

 その夜、母親から作文のスクショがメールで届いた。亮は夢で書いた作文のメモと照らし合わせた。

 やはり一字一句、完全に一致していた。

 亮は画面を凝視した。何度も読み返した。句読点の位置、改行の位置、すべてが一致している。これは偶然なのか。それとも、本当に自分は四十年前の作文を完璧に記憶していたのか。

 だが、それでも疑念は消えない。もしかして、母親がメールを送る前に、亮が電話で伝えた内容から何かの記録を持ち出して、作文を都合の良いように改変したのではないか。いや、それはありえない。母親にそんなことをする理由はないし、そもそもそんな器用なことができるとも思えない。

 それとも、作文そのものが最近書かれたものだという可能性はないか。鉛筆の文字は、経年変化で色褪せているように見える。紙も、古びている。だが、それも偽造できないわけではない。

 亮は深く息を吐いた。自分は、何を恐れているのだろう。真実を知ることを恐れているのか。それとも、真実が期待と違うことを恐れているのか。

 彼は神谷に電話をかけた。

「もしもし、神谷。作文の画像が届いた。夢の記録と完全に一致してる」

 電話の向こうで、神谷は短い沈黙の後、こう言った。

「そうか。じゃあ、次のステップは、その作文が本当に四十年前に書かれたものかどうかを確認することだ」

「そんな必要ある? 俺も偽造の可能性考えたけど、誰が何のために小学生の作文を書き換えたり、捏造したりするんだよ」

「検証というのは、そういう細かな作業なんだ。とにかく、やるんだよ」

「どうやって?」

「正式な史料鑑定だね。紙の年代測定、インクの成分分析。俺の知り合いに、そういうのを専門にしている研究者がいる。頼んでみるよ」

「じゃあ、うん。頼む」

 電話を切った後、亮は再び作文の画像を見た。十二歳の自分の筆跡。丸みを帯びた、子供らしい文字。だが、その内容は、子供が書いたとは思えないほど観念的だ。

 亮は、十二歳の自分が何を考えていたのか、思い出そうとした。だが、その記憶は霧の中にある。断片的なイメージだけが浮かび上がる。小学校の教室。友達の顔。先生の声。だが、それらは具体的な文脈を持たない。まるで、写真のアルバムをぱらぱらとめくっているような感覚だ。

 そして、亮はある疑問に行き当たった。もし、自分が本当にこの作文を書いたのなら、なぜそれを忘れていたのだろう。こんなに重要な内容を。こんなに自分の核心に触れる内容を。

 それとも、忘れていたのではなく、抑圧していたのだろうか。十二歳の自分が恐れていたことを、五十二歳の自分が、実現してしまった。その事実を認めたくないから、記憶の奥底に封印していた。だが、偶然にも娘の結婚という出来事が、その封印を解いてしまった……のか。

 亮はなんとなく神谷から借りた本を手に取り、読み始めた。

 本の冒頭には、こう書かれていた。「記憶とは、過去の記録ではなく、現在の構成物である。我々が過去を思い出す時、我々は過去を再体験しているのではなく、過去について現在語っているのだ」

 すぐには理解が追いつかず、亮はその一節を何度も読み返した。

 翌日、亮は再び神谷のレンタルオフィスを訪れた。ラップトップには母親から届いた作文のスクショを保存していた。

 神谷は作文の内容と夢の記録を照合し、やがて顔を上げた。

「完全に一致している。句読点の位置まで同じだな」

 神谷は説明を続けた。

「もう一つの可能性は、君がこの作文の内容を無意識のうちに正確に記憶していた、ということだ。四十年前にこの作文を書いた時、その内容が君の深層記憶に刻まれた。そして一昨日の夜、『小学生からやり直せれば』という強い願望が引き金となって、その記憶が夢として表面化した、ということかな」

「でも、なぜ今なんだ? なぜ四十年経った今になって?」

「それは君の現在の心理状態と関係している。君の中に『過去に戻りたい』という強い願望が生まれた。そして、その願望が、四十年前の作文の記憶を引き出した。なぜなら、その作文は君の現在の心理状態と呼応しているからだ」

「よくわからない。小学生に戻りたい、なんて思うことあまりないと思うけど」

「作文の中で、十二歳の君は『五十二歳の自分が見ている夢の中の小学生だったらどうしよう』と書いている。そして今、五十二歳の君は『小学生の自分が見ている夢だったらいいのに』と願っているんじゃないか? それは完全な鏡像構造だ」

 神谷にそう言われると、自覚はなくても、自分が小学生に戻りたいと考えているような気分になってくる。

「もしそうだとしたら、恐れと願いの鏡像、てことになるね」

「そうだ。十二歳の君は未来を恐れた。五十二歳の君は過去を願った。この二つは、時間軸上で対称的な位置にある」

 神谷は図を描き始めた。時間軸を表す線。左端近くに「過去(十二歳)」と書かれた点と、右端近くに「現在(五十二歳)」と書かれた点。そして、その二つの間に双方向の矢印が引かれている。

「十二歳の君は、未来の自分が過去を夢見ることを恐れた。五十二歳の君は、まさにそれを実行している。これは、予言の自己成就と呼べるかもしれない」

「そうなのか」

「ただ、これを証明するには、実家にある作文が本当に小学生の時に書いたものかどうかを確認しないといけない。お母さんが何かの勘違いをしている可能性もゼロじゃない」

「まあ、そうだな。今度、実物を取りに行ってくるよ」

 週末、亮は実家を訪れた。母は玄関で亮を迎え、すぐに作文の入った段ボール箱を持ってきた。

「ほら、これよ。他にも、あなたの絵とか、通知表とか、いろいろ入ってるわ」

 亮は段ボール箱を開けた。古い紙の匂いが立ち上る。中には、色褪せたノートや画用紙、賞状などが無造作に詰め込まれていた。

 その中から、一枚の原稿用紙を取り出した。「四十年後の自分へ」というタイトル。間違いない。これが、あの作文だ。

 亮は作文を手に取り、光にかざした。紙は確かに古い。インクも色褪せている。だが、それだけでは決定的な証拠にはならない。

「母さん、この作文、俺が書いた時のこと、覚えてる?」

「ええ、覚えてるわよ。先生が家に電話してきて、びっくりしたもの。『亮くんは、何か特別な経験をしたんですか』って聞かれて」

「特別な経験?」

「そう。でも、そんなのなかったでしょ? 普通の小学生だったわよ、あなたは」

 母は少し困ったような顔をした。

「先生は、『この作文は、普通の子供が書く内容じゃない』って言ってたわ。そして『もしかしたら、亮くんは大人にとっての観念的、哲学的なことに興味があるのかもしれませんが、今はまだ、あまり深入りさせないでください』って。『子供のうちは、それがオカルトや非科学的なものにも繋がりかねないし、もっと明るく楽しい現実的なことを考えることを習慣にする方がいい』みたいなことだったかな」

「そうだったのか」

「でも、あなた、その後も特に変わったことなかったわよね。相変わらず、ぼんやりしてて、何考えてるかわからない子だったよね」

 母は笑った。だが、その笑いには、どこか寂しさが混じっているように思えた。

「母さん、ごめん」

「何が?」

「いや、何となく」

 亮は作文を丁寧に折りたたみ、封筒に入れた。

 亮は実家にあった作文を受け取り、神谷と共に、史料鑑定の専門家に確認を依頼した。神谷の知人で、古文書などの鑑定を専門とする会社の社長だという。

 一週間後、鑑定会社のオフィスで、報告を受けた。

「紙は一九八〇年代に製造されたもののデータと一致します。当時、学校で一般的に使われていた原稿用紙です。インクも当時の一般的な鉛筆の芯と同じだと考えられます。筆圧や筆跡の特徴から、十代前半の子供が書いたものと推定されます」

 社長は作文を亮に返した。

「間違いなく、これは四十年ほど前に書かれたものです。偽造の痕跡はありませんね」

 これで、作文が四十年くらい前に書かれたことが確かになった。

 オフィスを出た後、神谷は亮に言った。

「つまり、君は四十年前の作文を、一字一句正確に記憶していたことになる」

「そういうことになるな」

「驚異的だ。普通、人間の記憶はそこまで正確じゃない。特に、子供の頃の記憶は」

「じゃあ、俺は何なんだ?」

「わからない。だが、一つ言えるのは、その作文が君にとって、極めて重要な意味を持っていたということだね。だからこそ、四十年経っても記憶の奥底にしまっていた」

 亮は空を見上げた。冬の空は、透き通るように青かった。

 週末、亮は娘の杏菜に会った。待ち合わせ場所は、渋谷のカフェにした。亮は少し早めに着き、窓際の席で杏菜を待った。

 杏菜が現れた時、亮は一瞬、誰だかわからなかった。髪型が変わっていた。以前は長かった髪を、肩までの長さに切っている。表情も、以前より大人びて見える。

「お父さん、久しぶり」

「ああ、久しぶり。髪、切ったんだな」

「うん、結婚で名前も変わるし、イメージチェンジしようと思って」

 二人はコーヒーを注文した。杏菜は結婚式の詳細を話した。式場のこと、ドレスのこと、招待客のこと。亮は黙って聞いていた。

「お父さんも、来てくれるよね?」

「ああ、もちろん」

「お母さんも来るから、気まずいかもしれないけど」

「大丈夫だよ。娘の大事な日だから」

 杏菜は微笑んだ。

 そこで話題が途切れた。亮は思わず切り出してしまった。

「実はな、最近、不思議なことがあってさ」

 亮は作文の話を手短に話した。杏菜は黙って聞いていたが、やがてこう言った。

「お父さん、それって偶然か思い違いじゃないの? 記憶って曖昧でしょ」

「いや、史料鑑定もしてもらって、本当に四十年前に書かれたものだって確認できたんだ」

 杏菜は少し困ったような顔をした。

「そうなんだ。でも、だから何なの?」

「え?」

「だから、その作文が本物だとして、それが何かの意味あるの?」

 亮は言葉に詰まった。杏菜は続ける。

「私、子供の頃からずっと感じてたんだけど。お父さんって、いつも『もしも』って、仮定の言葉ばかり使ってた」

「そんなことないだろ」

「あるよ。お父さんはいつも、今じゃない別の人生を考えてた。離婚の時もそう。お父さんが、お母さんと一緒にいる『今』を生きてなかっただけ。そんなふうにも感じたよ、私」

 杏菜の声は冷静だったが、その言葉は亮の胸の奥の柔らかい部分に深く入り込んだ。

「覚えてる? 私が小学校の運動会で、リレーの選手に選ばれた時」

 亮は記憶を辿ろうとしたが、思い出せなかった。

「やっぱり覚えてないんだ。私、お父さんに見に来てほしくて、何度もお願いしたのに、お父さんは『仕事があるから』って言って来なかった」

「そうだったか」

「うん。でもね、後で気づいたの。お父さんは本当に仕事が忙しかったわけじゃない。お父さんは、そこにいることが嫌だったんだよ。他の家族が楽しそうにしてるのを見るのが」

 亮は何も言えなかった。

「お父さんはいつも、『もし別の選択をしていたら』って考えてた。『もし別の仕事に就いていたら』『もし別の人と結婚していたら』『もし別の人生を送っていたら』って」

 杏菜は亮の目を見た。

「だから、この作文の話も同じだと思う。お父さんは今、自分の人生に満足してない。だから、小学生の頃に戻りたいって願ってる。その願望が、記憶を歪めてるんじゃないかな」

「そんな難しいことじゃないと思うけど。でも、まあ夢は見たし、作文は実在してる」

「うん、それは分かる。でも、その作文の意味をお父さんが過大評価してるんじゃない?」

 杏菜は一呼吸置いて、続けた。

「お父さん、私は来年結婚する。それは変えられない現実。私はお父さんに、今の私を見てほしい。過去の自分じゃなくて、今のお父さんを生きてほしい」

 亮は深く息を吸った。

「お前は、いつからそんなに大人になったんだ」

「お父さんとお母さんが離婚した時からかな」

 杏菜は立ち上がった。

「もう行かなきゃ。彼が待ってるから」

「そうか。また連絡してくれよ」

「うん。結婚式のこと、ちゃんと教えるから」

 杏菜はカフェを出て行った。亮は窓越しに、杏菜が人混みの中に消えていくのを見た。

 亮は一人残され、冷めたコーヒーを飲み干した。苦かった。

 その夜、亮は再び夢を見た。

 今度も一九八七年ごろと思われる小学校の教室だった。だが、今回は亮は大人の姿をしていた。五十二歳の自分だ。誰も亮に気づいていない。まるで、彼は黒子のように、その場に存在していた。

 窓際の席に、十二歳の亮がいた。少年は作文用紙に向かって、何かを書いている。やがて少年が鉛筆を置き、ゆっくりと振り返った。

 亮と少年の目が合った。

 少年の表情は無表情だった。驚きも、喜びもない。ただ、虚ろな目で亮を見つめている。

 そして、少年はゆっくりと口を動かした。声は聞こえない。だが、その口の動きから、亮は理解した。

「助けて」

 亮は動けなかった。少年の目には、恐怖ではなく、深い諦めがあった。

 亮は手を伸ばそうとした。だが、彼の手は少年に届かない。透明な壁が、二人の間にあるようだった。

 少年は再び口を動かした。

「僕を思い出さないで」

 亮は混乱した。思い出さないで? どういう意味だ?

「思い出すたびに、僕はここに戻される。何度も、何度も」

 亮の心臓が早鐘を打った。

「お前は俺じゃないのか? 俺の記憶の中の存在だろ?」

 少年は首を横に振った。

「分からない。僕は僕だ。でも、あなたが思い出すたびに、僕は生まれる。そして、あなたが忘れると、僕は消える」

 少年は立ち上がった。

「あなたは今、小学生に戻りたいと願っている。でも、あなたが戻りたいのは僕じゃない。あなたが願っているのは、『今とは違う人生』だ」

 少年は亮に近づいた。透明な壁が、まるで水のように揺らいだ。

「でも、僕は今を生きている。僕にとって、これは夢じゃない。現実だ。あなたが僕を思い出すたびに、僕の現実は歪む。僕は『五十二歳のあなたの夢の中の存在』になってしまう」

 亮は震えた。

「じゃあ、俺はどうすればいい?」

 少年は悲しそうに微笑んだ。

「分からない。でも、お願いだから、僕を助けようとしないで。僕はあなたじゃない。僕は僕だ」

 そして、教室の光景が揺らぎ始めた。窓の外の景色が、まるで水彩画に水を垂らしたように滲んでいく。

 亮は叫ぼうとした。だが、声が出ない。

 少年は最後に、こう言った。

「あなたが僕を忘れない限り、僕はここに囚われ続ける。でも、あなたが僕を忘れたら、僕は存在しなくなる。どちらにしても、僕は自由になれない」

 教室が、舞台のセットのように完全に崩壊した。

 亮は汗びっしょりで目を覚ました。枕が濡れている。

 彼はベッドから起き上がり、洗面所に向かった。鏡に映った自分の顔は、ひどく疲れて見えた。目の下にクマができている。頬はこけている。

 亮は冷水で顔を洗った。だが、夢の残像は消えない。少年の虚ろな目。「助けて」という無言の叫び。「僕を思い出さないで」という矛盾した願い。

 亮はリビングに戻り、ソファに座った。時計を見ると、午前四時だった。

 彼はラップトップを開き、夢の内容を記録した。だが、書きながら、ある疑問が湧いてきた。この夢は、本当に夢なのだろうか。それとも、何か別の現象なのだろうか。

 亮は、量子力学の多世界解釈について読んだことを思い出した。それによれば、すべての可能性が実現する並行世界が無数に存在するという。もしそうなら、十二歳の自分が生きている世界も、どこかに実在しているのかもしれない。そして、何らかの方法で、その世界と今の世界が繋がっているのかもしれない。

 いや、この時点でその概念を持ち出すのは飛躍しすぎだ。亮は頭を振った。これは単なる夢だ。自分の潜在意識が作り出した幻影のようなものに過ぎない。

 だが、それでも疑念は消えない。

 亮は数日間、ぼんやりと過ごした。原稿の締め切りが迫っているのに、集中できない。コワーキングスペースに行っても、ラップトップを開くだけで、何も書けない。

 そんな時、偶然、元妻の紗季と再会した。スーパーで買い物をしていた時、レジの列で偶然に紗季を見かけた。およそ五年ぶりの再会だった。

 気まずさはあるが、避けてもしょうがない。杏菜の結婚の件もあり、少しだけ話すことにし、二人は近くのファミレスに入った。

「亮、痩せたわね。ちゃんと食べてる?」

「適当にな」

 杏菜の結婚相手や式の予定などについて一通り話すと、妙な間が空いてしまった。席を立とうかと思うと、紗季は微笑みながら、真剣な目つきで聞いてきた。

「何かあった?」

 亮はここではやめようと思っていたのだが、すでに杏菜に話したこともあり、作文の話を紗季に手短に話した。紗季は黙って聞いていた。

「亮、それって結局、あなたが今から逃げたいってことでしょ?」

「そうじゃなくて……」

「私、あなたと結婚してた時からずっと感じてたの。あなたはいつも『別の選択肢』を探してた。今ここにいるあなたじゃなくて、『もし別の道を選んでいたら』っていう架空のあなたを」

 亮は俯いた。母娘がほとんど同じことを言うものだ、と苦く思った。

「あなたはいつも、過去を振り返ってるか、未来を心配してるかのどちらかだった。今、この瞬間を生きることができなかった」

「それは言い過ぎだろ」

「じゃあ、私たちが最後に一緒に夕食を食べた時のこと、覚えてる?」

 亮は記憶を辿ろうとしたが、思い出せなかった。

「ほら、やっぱり。あの時、私、あなたに大事な話があるって言ったのよ。でも、あなたはずっとスマホを見てた。私が何を話しても、生返事ばかり」

 紗季は少し目を潤ませたように見えたが、それは僅かな怒りからだったのかもしれない。

「あの時、私、思ったの。ああ、この人は、もうここにいないんだって。体はここにあるけど、心はどこか別の場所にある。過去か、未来か、それとも『もしも』の世界か」

 紗季はコーヒーカップを両手で包んだ。

「その作文の話も同じよ。あなたは過去に答えを求めてる。でも、答えは過去にはない。答えは、今のあなたがどう選択するかにしかない」

 紗季は窓の外を見た。ファミレスの駐車場では、若いカップルが車に乗り込もうとしている。笑い声が聞こえる。

「覚えてる? 私たち、付き合い始めた頃、よくこういうファミレスに来たわよね」

「ああ」

「あの頃のあなたは、もっと『今』にいた。私の話を聞いてくれたし、一緒に笑ったし、未来のことを楽しそうに話してた」

 紗季は亮を見た。

「でも、結婚してから、あなたは変わった。いや、変わったんじゃないかもしれない。元々持っていた傾向が、強くなっただけかもしれない」

「俺は、何がいけなかったんだ?」

「いけなかったんじゃないの。ただ、あなたは『今』を生きることが苦手だった。現実を受け入れることが苦手だったってことだね」

 紗季は立ち上がった。

「その作文、そのまま大事にしてあげるといいんじゃない。でも、それに支配されないで。十二歳のあなたは、きっとあなたに『充実した人生を送ってほしい』と願ってたはずよ。『過去に囚われてほしい』とは願ってなかったと思うけど」

 紗季はバッグを手に取った。

「杏菜の結婚式で会いましょう。それまで、元気でね」

 紗季はファミレスを出て行った。亮は一人残され、紗季が座っていた席を見つめた。そこには、紗季のコーヒーカップが残されていた。まだ半分以上、残っている。

 亮は窓の外を見た。駐車場の若いカップルは、もういなかった。



浮遊


 亮は明晰夢を学ぶことにした。神谷から紹介された論文を読み、そこに記された方法を実践し始めた。

 明晰夢は、夢を見ている最中に「これは夢だ」と自覚し、夢の展開をある程度コントロールできる状態だ。科学的に証明された脳の機能であり、悪夢の緩和やスキル習得など、心身の健康にも応用が期待されている。訓練によって多くの人が見ることができるようになると知り、亮は自分の作文の謎の解明にも応用できると思いついたのだった。

 論文によれば、明晰夢を見るための方法はいくつかある。最も一般的なのは、リアリティチェックと呼ばれる技法だ。日中、定期的に「今、自分は夢を見ているのではないか」と自問し、現実かどうかを確認する習慣をつける。例えば、時計を見て、数秒後にもう一度見る。現実なら時刻は少ししか変わらないが、夢の中では時計の表示が大きく変わったり、読めなくなったりする。

 亮は、この方法を日常生活に取り入れ始めた。コワーキングスペースで作業している時も、食事をしている時も、一時間に一度は時計を確認し、「これは夢ではないか」と自問する。最初は奇妙に感じたが、次第に習慣になった。

 もう一つの方法は、夢日記をつけることだ。目覚めた直後に、夢の内容をできるだけ詳細に記録する。これにより、夢の記憶が強化され、夢の中で「これは夢だ」と気づきやすくなる。

 亮は、枕元にノートを置き、毎朝、夢の内容を書き留めるようにした。最初の数日は、ほとんど何も覚えていなかった。断片的なイメージだけ。だが、一週間ほど続けると、夢の記憶がより鮮明になってきた。

 夢日記には、奇妙な内容が記録されていった。

「渋谷の街を歩いている。だが、建物の配置がおかしい。スクランブル交差点が、駅の反対側にある。空が赤い」

「母と話している。だが、母の顔がはっきりしない。声だけが聞こえる」

「小学校の教室にいる。だが、机の上に見たことのない機械がある。それが何なのか、夢の中の自分は知っているようだが、目覚めると思い出せない」

 亮は、これらの記録を読み返しながら、夢の中で共通するパターンを探した。場所の歪み。人物の曖昧さ。時間の流れの不自然さ。これらが、夢と現実を区別する手がかりになる。

 三日目の夜、亮は初めて、夢の中で「これは夢かもしれない」と疑った。だが、その疑念が確信に変わる前に、夢は別の場面に移行してしまった。

 五日目の夜、亮は夢の中で時計を見た。だが、時計の針が読めない。これは夢だ、と気づいた瞬間、目が覚めてしまった。

 一週間が過ぎた。亮は、明晰夢の訓練に挫折しそうになった。毎晩、夢の中で「これは夢だ」と気づこうとするが、気づく前に目が覚めるか、夢が別の内容に変わってしまう。

 神谷に相談すると、こう言われた。

「焦るな。明晰夢は、すぐに見られるものじゃない。数週間、場合によっては数ヶ月かかることもあるようだ」

「でも、俺には時間がない」

「なぜ?」

「わからない。ただ、早く答えを見つけないと、何かが失われる気がする」

 神谷は亮の目を見た。

「君は何を恐れているんだ?」

 亮は答えられなかった。

 十日目の夜、亮は夢の中で、廊下を歩いていた。長い、長い廊下。両側には無数のドアがある。亮は、その一つ一つを開けようとした。だが、どのドアも開かない。

 亮は、ふと立ち止まった。そして、思った。これは夢ではないか。

 周囲を見回した。廊下の壁には、絵が掛かっている。だが、その絵の内容が判別できない。まるで、ピントの合わない写真のように、輪郭だけがぼんやりと見える。

 これは夢だ。

 その確信が、亮の中で結晶化した瞬間、廊下の景色が鮮明になった。壁の質感、床のきしむ音、空気の温度。すべてが、現実よりもリアルに感じられる。

 だが、亮が一歩踏み出そうとした瞬間、目が覚めた。

 くそ、と亮は毒づいた。あと少しだったのに。

 だが、これは進歩だ。夢の中で、明確に「これは夢だ」と認識できた。次は、その認識を保ったまま、夢の中で行動できるようにならなければならない。

 二週間が過ぎた。亮は、ほぼ毎晩、明晰夢に近い状態を体験するようになった。だが、完全なコントロールには至らない。夢だと気づいても、すぐに忘れてしまうか、興奮して目が覚めてしまう。

 そして、ある夜、亮は明晰夢のコントロールに成功した。

 夢の中で、自分が夢を見ていることを自覚したのだ。

 亮は再び、一九八七年の小学校の教室にいた。だが今回は違う。彼は自分が五十二歳の小田山亮であり、これが夢であることを完全に理解していた。

 教室の中を見渡す。木製の机と椅子。黒板に書かれた「作文」という文字。窓から差し込む秋の午後の光。すべてが、異様なほど鮮明だ。

 窓際の席に、十二歳の少年が座っていた。窓の外を見つめている。小学生の亮だと思われるが、夢の中の意識は大人の亮のものだ。

 亮は少年に近づいた。少年は、亮の気配に気づいたのか、ゆっくりと振り向いた。

「やあ」

 少年の表情は、静かな好奇心に満ちていた。

「あなたが来ることは分かっていた」

「どうして?」

「だって、あなたは僕を探しているから」

 亮は少年の向かいの席に座った。机の表面には、無数の落書きが彫り込まれている。誰かの名前。ハートマーク。意味不明の記号。

「君は俺なのか? それとも別の存在なのか?」

 少年は小さく笑った。

「その質問自体が、答えだと思う。あなたは僕が『あなた自身』であってほしい。でも同時に、僕が『別の可能性』であってほしいとも思っている。だから、あなたはその答えを決められない」

 亮は息を呑んだ。

「前回、君は『助けて』と言った」

「ああ。あなたが僕を思い出すたびに、僕はここに戻される。そして、同じ作文を書き、同じ恐怖を感じる。それは、僕にとっても、あなたにとっても苦しいことだと思った」

「でも、君は『僕を思い出さないで』とも言った」

「矛盾してるよね。でも、人間の心って、矛盾だらけでしょ?」

 少年は続ける。

「僕はね、あなたに提案がある。僕と入れ替わらない? 僕があなたになって、あなたが僕になる。あなたは小学六年生に戻れる。そして、人生をやり直せる」

 亮は心臓が跳ねるのを感じた。そのアイディアはまさに、自分が無意識に願ったことではないか。

「それができるのか?」

「夢の中なら、何でもできる」

 少年は立ち上がった。

「どう? やってみる?」

 亮も立ち上がった。だが、彼の足は動かなかった。

 教室の空気が、微妙に変化した。窓の外の景色が、ゆっくりと動き始めた。まるで、時間が巻き戻されているように。

「もし俺が君になったら、君はどうなる?」

「僕? 僕はあなたになる。五十二歳のフリーライター。離婚して、娘と疎遠で、人生に停滞を感じている」

 少年は淡々と言った。

「でも、それでいいよ。だって、それが『今』だからね」

 亮は少年を見つめた。少年の目には、諦めとも、受容とも取れる感情が見えた。

「それは……だめだ」

「なぜ?」

「なぜなら、それは何も解決にならないからだ」

 亮は教室の中を歩き始めた。黒板の前に立ち、教室全体を見渡す。

「もし俺が君になって、人生をやり直したとしよう。俺は今の知識と経験を持っているから、過去の失敗を避けることができる。より良い選択ができる」

 亮は振り返った。

「でも、四十年後、俺はまた同じことを考えるんじゃないか? 『あの時、別の選択をしていれば』と。そして、また小学生に戻りたいと願うんじゃないか?」

 少年は首を傾げた。

「じゃあ、あなたはどうするの?」

「俺は、この円環を断ち切らなければならない。君を忘れることじゃない。君を思い出さないことでもない」

 亮は少年の目を見た。

「君を、過去の存在としてではなく、今の俺を構成する一部として受け入れることだ」

 少年は静かに亮を見つめている。

「それは、どういうこと?」

「君は、俺が十二歳の時に持っていた願いと恐れの結晶だ。『充実した人生を送りたい』という願いと、『夢の中の存在になったらどうしよう』という恐れ。その両方が、君を形作っている」

 亮は続ける。

「そして今、五十二歳の俺は、君が恐れていたことを実現してしまった。俺は『今』を生きず、常に『別の可能性』を探している。紗季も杏菜にも、それを見抜かれている。俺はいつも、ここにいないのかもしれない」

 少年は静かに頷いた。

「でも」と亮は続ける。「君が願っていたことも、まだ実現できる。『充実した人生を送る』ことは、今からでもできる」

「どうやって?」

「『今』を選ぶことだ。過去でもなく、未来でもなく、この瞬間だ。そして、それは全部一つなんだ」

 亮は少年の肩に手を置いた。その感触は、驚くほどリアルだった。温かく、確かに存在している。

「君が書いた作文の最後の一文を覚えてるか? 『小学生の頃に戻りたいと思って、そんな夢を見ないような人生を送りたいです』っていう」

「うん」

「俺は今まで、それを『未来の俺が過去を懐かしむのは嫌だ』という意味だと思っていた。でも、違う。それは、もっと深い意味があった」

 亮は窓の外を見た。校庭では、子供たちが遊んでいる。その声が、風に乗って聞こえてくる。

「時間は、対称的でも円環でもない。時間は、ただそこに存在していて、すべてが繋がっている。過去も、現在も、未来も、実は一つのものだ。そして、その『一つのもの』の中で、俺たちが直接経験できるのは『今』だけだ」

 亮は少年を見た。

「君が書いた作文は、それを理解していた。十二歳の君は、五十二歳の俺よりもずっと本質を見ていた」

 少年は微笑んだ。その笑顔は、以前の虚ろさとは違う、穏やかな表情だった。

「そうだね。僕は、そういう意味で書いたのかもしれない」

「ああ。だから、俺は君を過去に置いていくことはしない。君は常に俺の中にいる。そして、君が教えてくれたことを、俺はこれから実践していく」

 教室の光が、少しずつ明るくなり始めた。窓から差し込む光が、金色に輝いている。

 少年は亮の手を取った。

「ねえ、あなたは僕を助けようとしてくれた。でも、本当は、僕があなたを助けなきゃいけなかったんだね」

「いや、俺たちは互いに助け合ったんだ。君がいなければ、俺は自分の存在の理解に辿り着けなかった」

 少年は頷いた。

「じゃあ、もう会えないの?」

「いや、会える。なぜなら、君は常に俺の中にいるから。俺が選択に迷った時、君が現れて思い出させてくれるだろう」

「何を?」

「今、この時間にだけ自分が存在すること。そして、それで十分だということを」

 少年は最後に手を振った。その姿が、ゆっくりと光の中に溶けていく。

 教室全体が光に包まれた。だが、それは眩しい光ではなく、柔らかく、温かい光だった。

 その時、これが夢の中の出来事だと、自分が明晰夢を見ていると明らかに認識した。そして、この夢を終わらせる時が来たと理解した。

 亮は夢の中でゆっくりと目を閉じた。

 亮は目を覚ました。

 部屋には、朝の光が差し込んでいた。時計を見ると、午前七時だった。いつもより早い目覚めだ。

 だが、体は不思議なほど軽かった。昨夜の夢は、まだ鮮明に覚えている。少年との会話。教室の光景。そして、最後に理解したこと。

 亮は引き出しを開けた。そこには、四十年前の作文が入っていた。

 亮はくすんだ色の原稿用紙を取り出し、もう一度読んだ。

 その作文は、もはや謎でも彼を縛る鎖ではない。それは単に、十二歳の少年が書いた、誠実な願いの記録だった。そして、その願いは、今の亮が実現すべきものだ。

 亮はノートを取り出し、書き始めた。

「十二歳の亮へ。

 君の作文を読んだ。君が恐れていたこと、そして願っていたこと、両方とも理解した。

 君は、五十二歳の自分が見ている夢の中の存在になることを恐れていた。そして実際、俺は長い間、まさにそのように生きていた。過去と現在と未来の捉え方さえ分からずに。

 でも、君が教えてくれた。時間はすべて繋がっていて一体で、そこには『今』しかない。

 それは、過去を美化することでも、未来に希望を託すことでもない。それは、今、ここに存在することなのだ。

 俺は今から、君が願った人生を送れるかもしれない。遅すぎることはないだろう。なぜなら、『今』は常に存在し続けるのだから。ありがとう。五十二歳の亮より」

 亮は書き終えて、ノートを閉じた。

 彼は窓を開けた。十一月の冷たい空気が、部屋に流れ込んだ。だが、その冷たさは不快ではなく、むしろ心地よかった。生きていることを実感させる、鋭い感覚だ。

 彼は深く息を吸った。空気が肺を満たす感覚。それが、今、ここに生きていることの証だ。

 そして、今日やるべきことを考えた。締め切りの迫った原稿がある。「AI時代における記憶と自己同一性」だ。娘の杏菜に連絡をして、結婚式のスケジュールの詳細を確認しなければならない。

 だが、その前に、亮はラップトップを開き、原稿に向き合うことにした。

 キーボードに指を置く。そして、書き始める。

「記憶とは何か。それは過去の忠実な記録ではない。記憶とは、現在の自己を構成する要素であり、未来への指針でもある。我々は記憶を通して、自分が誰であるかを理解し、どこへ向かうべきかを知る」

 亮の指は、スムーズにキーボードの上を動いた。言葉が、自然に溢れ出てくる。

「しかし、記憶が常に変化し、再構成されるものだとしたら、自己同一性とは何か。昨日の自分と今日の自分は、本当に同じ人間なのか」

 亮は書き続ける。自分の体験を、学術的な言葉に翻訳していく。四十年前の作文。明晰夢の体験。そして、そこから得た洞察。

「自己同一性は、固定されたものではなく、動的なプロセスである。我々は常に、過去の自分と現在の自分を統合し、未来の自分を予測している。その連続的なプロセスこそが、自己なのだ」

 三時間後、亮は原稿の初稿を書き上げた。まだ修正が必要だが、骨格はできた。

 亮は立ち上がり、キッチンでコーヒーを淹れた。窓の外を見ると、渋谷の街が見える。無数のビル。行き交う人々。変化し続ける都市の風景がある。そして今の亮には、自分もその都市の一部であるという感覚があった。

 亮はコーヒーを飲み干し、スマートフォンを手に取った。

 三週間後、亮は近所の小学校からの礼状を受け取った。以前、知人の紹介で高学年向けに行った「ライターの仕事について」という社会学習のトークに参加した子供からのメッセージだった。

 封筒の中には、子供たちが書いた手紙が十数枚入っていた。亮は一枚一枚読んでいった。

「小田山さんへ。お話、面白かったです。僕も将来、ライターになりたいと思いました」

「小田山さんへ。私は作文が苦手です。でも、小田山さんの話を聞いて、少し書くのが楽しくなりました」

 その中である手紙に目が留まった。十二歳の少年からだった。

「小田山さんへ

 この前は、お話を聞かせてくれてありがとうございました。

 ぼくは、小田山さんが『今しかできないことを見つけて、それをやることが大事だ』と言っていたのが、心に残りました。

 ぼくは、よく将来のことを考えて不安になります。大人になったら、どんな仕事をするのか。どんな人生を送るのか。

 でも、小田山さんの話を聞いて、今が将来に繋がっているのだと思うようになりました。

 小田山さんは、今、幸せですか? ぼくは、大人になった時、今のことを思い出して、『あの頃は良かった』と思いたくありません。だから、今できることをしようと思います。田中健太」

 この少年は、十二歳の亮と同じことを考えている。未来への不安。そして、今をどう生きるかという自問。

 それは、人間の普遍的な経験なのかもしれない。誰もが、どの時代でも、同じことを考えてきているということか。

 亮はノートを取り出し、返信の手紙を書き始めた。

「田中健太くんへ

 手紙をありがとう。君のメッセージを読んで、私も多くのことを学びました。

 君が未来に不安を感じるのは、自然なことです。私も君と同じ年齢の時、同じように感じていました。そして五十二歳になった今でも、時々同じように感じます。

 君が今日、一生懸命勉強したこと。友達と遊んだこと。家族と過ごしたこと。そのすべてが、君の未来を作っていきます。それは全部つながっています。一つのことです。

 だから、未来を心配するよりも、今、そこにいてできることを大切にしてください。そうすれば、未来の君は、きっと今の君に感謝するでしょう。

 君の未来が、素晴らしいものでありますように。小田山亮」

 亮は手紙を封筒に入れ、宛名を小学校にして、切手を貼った。

 玄関を出る。アパートの階段を下り、通りに出た。平日の昼間、通りは人で溢れている。若者たち、ビジネスマン、観光客。誰もが、自分の「今」を生きている。

 亮の中で、四十年前の作文と、夢の中の体験と、今この瞬間が、一つに繋がった。そのつながりを考えると、やはり時間は円環ではない。もしかしたら螺旋状の一体なのかもしれない。同じ問いに何度も直面しながら、少しずつ高い視点に到達していく。そして、その螺旋そのものが「今」なのだ。

 亮は郵便ポストの前に立った。一瞬躊躇した。だが、すぐに決心し、封筒を投函口に入れた。

 封筒が投函口に消えていくのを見届けて、亮はスマートフォンを取り出し、杏菜に電話をかけた。ここ数週間、何度か電話をしているのだが、つながらなかった。そろそろ結婚式の話を聞かないといけない。

「もしもし、杏菜?」

「お父さん? どうしたの?」

「あ、いや、出てくれてありがとう。あのさ、結婚式のスケジュールのこと、詳しく聞きたくて。時間ある?」

 杏菜は少し驚いたようだったが、すぐに嬉しそうな声になった。

「うん、今大丈夫。お母さんと一緒にいるんだけど、それ知っててかけてきた? 式場なんだけどね……」

 亮は娘の声に耳を傾けた。その声の後ろから「電話代わらなくていいからね」という紗季の声が聞こえた。

 彼の心は、今、ここにある。

 過去の作文も、夢の中の少年も、亮の一部として存在していた。だが、それらは彼を縛るものではなく、亮を構成する要素なのだ。

 亮は、ようやく理解した。記憶とは、過去の記録ではない。記憶とは、今を生きるためのデータであり指標なのだ。そして、その指標が指し示す先も、常に「今」なのだ。

 電話を切った後、亮は渋谷の街を歩き続けた。目的地はない。ただ、歩きたかった。

 やがて、コワーキングスペースの前を通りかかった。中を覗き込むと、相変わらず若い起業家たちが熱心に議論している。

 亮はコワーキングスペースには立ち寄らず、アパートに向かって歩き始めた。亮にも、自分だけの「今」があった。

 亮は深く息を吸った。冬の冷たい空気が肺を満たした。

 アパートに戻り、ラップトップを開くと、新しい原稿の依頼メールが届いていた。今度のテーマは「人間の長寿化に関する医科学研究の最前線」だった。

 亮はリサーチの下地となる情報を集める前段として、自分自身へのメモをタイピングし始めた。

「医科学の指数関数的な進歩が期待される中、人間の寿命は今後、数十年の間に飛躍的に伸びることが確実だとされている。一説では平均寿命が百二十歳を超えるのも遠くない未来だという。人間は百歳前後になっても、身体能力を維持し、働いている可能性がある。私は現在、五十二歳。例えば五十年後の二千七十七年なら、百二歳になる。脳もほぼ正常に機能していることも考えられる。

 ふと、ある考えが頭をよぎる。今夜眠りにつき、明日の朝、目が覚めたら、今いるこの世界が、そんな百二歳の自分が見ている夢の中の五十二歳のライターだったらどうしよう、という想像だ。

 これから続く『今』を飛び越えて、過去を振り返る百二歳にはなりたくない。そのためには、この今をどう過ごすべきなのか」

 亮はメモを保存し、原稿のリサーチを始めた。

 窓の外では、渋谷の街が、いつものように動き続けている。亮は、その街の一部として、今、ここに存在している。過去も、未来も、すべては今この瞬間に収束しているのだ。

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