フィクションを書き始めて、数年になる。容易ではないジャンルだということは承知しているが、やはり具体的な成果を生み出すには程遠い現状だ。
それでも、それまでやってきたノンフィクション的なライティングとの考え方や書き方の違いを、身をもって知ることができたことは大きかった。ほぼ未知の世界に足を踏み入れた感覚は今も鮮明で、これからさらに技術に磨きをかければ、いつか、より良い作品を書けるのではないかと思っている。
以前と大きく違ったことのひとつに、縦書きがある。それまで横書きしかタイプしたことがなく、縦書きの執筆は学生時代以来だったかもしれない。コンテンツの様式としての汎用性や有用性はともかく、半ば伝統文化を守るつもりで対応アプリや環境を整えていくのは、なかなか楽しい作業だった。
そして、原稿を「紙に印刷」することが求められる場面の多さも、それまでとは大きく違った。数十年にわたり、コンテンツはデジタルで作成し、入稿はオンラインだった身には、ある種の先祖返り的であり、むしろ新鮮な体験だった。推敲や校正に紙が効果的なのは広く言われることで、作品公募の応募条件に「紙に印刷のみ可」と記されていることさえある。実際、モニターでは見落としていた誤りに気づくことは多く、改稿には欠かせない工程になった。
問題は、大量に積み上がった原稿の山である。作業の記録として手元に置いておきたい気持ちもないわけではない。最終原稿が賞の対象となるなら、その価値は別だろうが、冒頭に書いたとおり、その可能性は低い。保存すれば嵩張り、湿気を吸う。何より、完成に至らなかった思考の断片がクローゼットを占拠しているようで、精神衛生上よろしくない。
資源ゴミとして出せば、誰かに読まれるかもしれない。読まれて困るものではないが、創作物の扱いとしては正しくない気がする。簡易シュレッダーは持っているが、あの量には非力すぎる。「書類溶解」サービスに頼めば確実だが、制作過程の産物にそのコストはかけたくないのが正気なところ。
焼くことにした。
キャンプフィールドで、七輪を借りた。持ち込んだA4のコピー用紙の束を、数枚ずつクシャッと丸めては火に放り込む。一瞬、紙が含んでいた湿気が白い煙となって立ち上がり、そのあとは一気に燃え上がって灰になる。炎の中に、自分が書いた文字列がちらりと見える。文体のくせから、どの作品のどのあたりの文章かさえ、わかることがある。文字列はメラメラと踊るように揺れ、赤い炎に包まれ、灰になって、空へ舞う。かすかに、インクの焦げる匂いが漂う。
焼かれた自分の言葉は、どこへ行ってしまうのだろう。七輪から立ち上る煙を見ているうちに、村上春樹がかつてエッセイに書いていたことを思い出した。ワープロのデリートキーで消去した言葉は、いったいどこへ消えていくのか、と。思索の断片は形を失い、風の中を漂い続けているのか。意味そのものを消滅させ、無に帰していくのか。そもそも、存在などしていなかったのか。それとも、形を失うことでひとつの旅を終え、書き手の内側へと静かに戻っていくのか。
その答えは、書き続けることの先にあるのかもしれない。
∎