仕事に必要なのは、自分の意思と身体、そして数枚のクォーターとトークンだけ。そんなミニマルなしばりが、私がメッセンジャーの仕事を好きだった理由だ。
クォーターは公衆電話をかけるための25セント硬貨。トークンは、ニューヨーク市の広大な路線網を距離に関わらず一度乗車できる専用コイン。当時、その価値は一枚75セントだったはずだ。
「出勤先」は、ミッドタウンのグランド・セントラル駅(通称グラセン)の薄暗い隅、壊れたベンチが寄せ集められた一角だった。そこは、アメリカの公共空間特有の、どこか張り詰めた静けさを纏う場所だ。トイレと公衆電話という生活インフラがあるがゆえに、ここは自然と、さまざまなメッセンジャーたちが待機する緩衝地帯のような場所となっていた。
同業者たちとは、実際に共に働くわけではない。しかし、この場所を拠点とする仲間として、一種の、静かな共同体意識があった。アフリカの聞いたことのない国から来た長身の男、国籍不明のアジア人の若い女性、スペイン語しか話せない中高年の人たち。私たちは、世の中のメインストリームから少し外れた、浮遊する場所にいたように思う。皆、まるでこの都市と世界を俯瞰するような、どこか達観した目線を持っていたのかもしれない。
それぞれの「始業時間」になると、公衆電話にクォーターを押し込み、所属する会社に連絡を入れる。担当者に名前を伝え、その日の最初の仕事を受注する。ピックアップ先は44丁目、デリバリー先は51丁目。指示された場所まで行き、書類や物品を受け取り、目的地まで運ぶ。移動は、距離に応じて徒歩か地下鉄だった。デリバリーを完了すると、再びオフィスに電話をかけ、業務完了と現在の居場所を報告する。次のオーダーがあるか確認し、なければグラセンに戻り、一定時間後に再度電話をかける。このサイクルを、勤務時間(概ね6時間)の終わりまで繰り返す。
当時、マンハッタンを走るロードバイクのメッセンジャーがドキュメンタリー映画で有名になっていた。私たちの徒歩と地下鉄での仕事はそれとは対照的に、地味で、しかし確かな重みを持っていた。私が所属していたのは日系のメッセンジャーサービス会社だったが、クライアントは必ずしも日系企業ではなかった。ニューヨークの多様な業種のレセプションデスクを巡る日々は、それ自体が刺激的だった。
報酬は、一件のデリバリーに対して5ドル。これには電話代と地下鉄トークンの代金が含まれていた。仕事が少ない日でも、スタンバイの報酬と電話代として10ドルが支払われた。
仕事のない時間はかなりあり、私はグラセンの汚れたベンチで同僚たちと無駄話をしていた。西アフリカから来た若い男は「アメリカよりアフリカの方がいい」と言い、多くの者が抱えていた違法滞在という境界線の曖昧さを、さらりと口にした。スペイン語しか話せないと思っていたおじさんが、ずっと英語で話しかけてくれていたことに、長い時間が経ってから気づいたこともあった。同僚たちの中に日本人は少なかった。東海岸には日本人学生が少なく、いたとしてもメッセンジャーのような単純労働を選ぶ者はさらに少なかった。
これはインターネットもスマートフォンもなかった頃の話だ。その後、ニューヨークでは公衆電話が段階的に廃止され、地下鉄のトークンシステムはメトロカードに、そして電子決済へと移行していった。
たくさんのモノがデータに置き換えられて久しい。しかし今も、ペタバイト級の記憶媒体が人の手で物理的に運ばれているとも聞く。通信回線では届かない速さと確実さが、まだ身体を必要としているのだ。もし私がこの先そういう仕事に携わる機会があるなら、かつてのように、シンプルで身体が主役のスタイルでやってみたいと思う。
あのころの仲間の何人かも、今ごろ世界のどこかで同じことを考えているのではないか。移動することと、届けることは、おそらくずっと同じことなのだ。
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